人との関係を継続するというのは難しい。
私自身、決して褒められた生き方ではなく、どちらかというと言えない事ばかりを積み重ねて今まで生きてきたように思う。
その上で、ここ最近、私なりに感じた事は............
どれほど近しい関係であろうと、人には越えてはならない一線というものがあり
重ねた年月が長ければ長いほど、向けた愛情が深ければ深いほど
遠き頃よりその一線に踏み込まれていた事を知った時、愛情は恐怖へと堕ちていく。
ただ暗く、遠く........
巡る思い出が多いほど、ただ深く深く。
その恐怖を元の愛情に帰すための手段が、己自身が裏で絵を描く手段というのは、決定的な蔑みを生み、恐怖の感情は深黒へ、思考はただ隔絶への手段と方法のベクトルへと。
一線を曖昧にして定義せず、目を逸らし生きる事で手にする安穏とした現在と
困難は想像に容易く、失うものも多く、言えない言葉に溢れるばかりの以降を比べた時
ある人は、全てを理解した上で、不器用な生き方を選択した。
そして時は流れる。
その人は、自らの足でしっかりと歩いている。
大切なものを傷つけないよう。
その選択が後悔とならぬよう必死で。
これまで、軽々しく「死」を口にし、男に振り向いてもらおうとするヒトなど何人も見てきた。
持て余す時間を埋めるため、戯れの対象だと気付きもせず、何ら関心も無い事を知りもせず、得意顔をする。
最初から終わりまでを描いたシナリオになぞらえて嘲笑としていた事にも気付かないような、頭の薄いヒトなどもういらない。
「構ってもらえる相手」を「愛してくれる相手」と錯覚し、誰にでも身体を開く薄汚いヒトなど、哀れにしか映らない。
客観的見解から否定すると、「誰も私をわかってくれない!」の言葉ばかりで、会話にすらならない。
倫理も価値も自ら判断できないほどの心酔を与えながら、予見の範疇でしかないその過程を眺める愉悦。
とっくにもう飽きていた。
その人は、表面上は頭が悪く見える。
毎度、言葉にしなければいけない事を言葉にせず、黙っておかなければならない事を黙っていられず........
何度、「あ の な ぁ!」と呆れた事やら。
けれど...............
良い悪いは別にして、嘘をつかない。
思考よりも感覚が優先され、計算がない。
端的に言えば、単純。
単純が故に芯が太く、どれだけ感情が不安定になろうと決意にブレがない。
。
それを感じられれば、それでじゅうぶん。
顔色窺ったり、反応に一喜一憂する事もなく、対等の視線で考えを述べられる。
そこで軋轢が生じても、その人の世界は変わりはしないと理解できる。
その人が決めた生き方の中で、必要とされれば手を差し伸べよう。
純粋に求められれば応えよう。
その選択が間違いではなかった事を示してあげよう。
そうやって、ゆるりと時を感じていたい。
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