このところブログの更新が止まっておりましたが、納車したてのアスリートで事故って陰にこもっていたという訳ではなく、まことに快調に乗っております。
実は、親戚関係の面倒くさいゴタゴタに巻き込まれている最中でございました...........
現状のところまで書いていきたいと思いますが.........
ハッキリ言って
「他人の不幸は誰かの幸せってもんだ」的、ダリオ・ブランドーのような点以外、クソ長い割に面白くもなんともありません...........
それでも読まれるヒマな人のために、人物相関図も載せておきます。

ことの起こりは30年ほど前、石油会社社長のT氏と愛人関係になったR子が起点となります。
当時は高度経済成長やら好景気も相まって片手うちわで会社経営していた現在85歳のT氏。
R子は愛人4号という立場。
T氏は親から引き継いだ会社と財産でやってきましたが、経営的なセンスも皆を引っ張るカリスマ性もなく、典型的なボンボン2代目社長。
それにに早い段階から気付いたのか、2号3号は自立して生活していける技能を持った上で接していく形を取ったそうですが、R子は社員として働いた知識も経験も無いまま25歳の時から囲われました。
それから30年。
R子の中ではT氏が全て。
善悪の思考は停止。
カルト宗教でいうところの
「洗脳」に近い状態で今に至ります。
私は16歳の時、T氏が大家として土地を貸しているガソリンスタンドで、バイトをしていたのがT氏と知り合ったキッカケ。
1階が昭和シェルのガソスタ、2階がT氏の会社といった造りの施設で、運転手付きのベンツS600と仕事用の180のベンツに乗り、成金丸出しの下品な格好で、バイト先に新人の女の子が入るたび
「おう!ワシの愛人になれへんか?」と、16歳から18歳ぐらいを手当たり次第に声かける始末。
(逆算すると私が現在37歳.....T氏は当時64歳.........)
私のバイトの同僚達からは
「ロリハゲ」と呼ばれ煙たがられていました.........
そして、そのまま私は20歳までバイトをしていましたが、そこで昭和シェルは閉店。
私は大学の授業との調整しながら、うどん屋と別のガソスタで夜勤勤務をメインに単発バイトも入れながら、月300時間ほど働いていました。
うどん屋900円、ガソスタ夜勤1400円の時給だったので、学費や車も払えるぐらいの給料に。
それから1年ほど経った時、突然T氏から携帯に電話がありました。
昭和シェルが閉店した後、次に入るテナントが無く、T氏自ら運営するから手伝ってほしいと。
時給1000円の提示でしたが、今更その程度の時給で働く気にもなれずお断り。
が、その後何度も電話掛かってきて、とりあえず話だけ聞きに行こうかと。
そのガソスタはノンスペ(天井吊り下げ式のガン)6本、床の補強が弱いため大型トラックは入れないといった、中の下規模のガソスタ。
にも関わらず軽油専門店でやると。
軽油の地下タンクは1つ、ガンも1つしか使わず、洗車も整備も一切無し。
更に現金払いな上に、日本の基準では軽油として認められない某国の白濁した軽油モドキを使用すると。
(実際、無印のタンクローリーに登って中身確認したら、通常なら透明な燃料が、タンクの底など全く見えないほど白濁した燃料.....自分の車には絶対使わないレベル)「こりゃ、すぐに店畳むことになるわ」と、当時、大学生の私でもすぐわかるほどの負の条件を満たしている有り様。
軽油の給油のみといったバイトがどれほど天国か、ガソスタバイトを経験した事のある人ならおわかりかと。
とりあえず、うどん屋の厨房でバタバタ働くより、半年で閉店するだろうと思いつつも楽なガソスタを選び、深夜のガソスタはそのまま継続。
そこで新規オープンにともない、R子の姪である現在私の妻S子と、その弟T君と知り合う事に。
S子は当時、ハワイ大学で成績抜群の特待生、ハイスクールを卒業して帰国しフリーターでもしようという弟T君とともに、R子からの依頼で、夏休みの間だけ手伝うといった形でバイトに来ており、そこでS子と私は付き合い始めた。
その時に知った過去のいきさつとして.......S子の父M男はT氏とR子からハワイで仕事をしないかと誘われ、当時勤めていたNTTを辞め渡米。
が、様々な法律問題をクリアせずに見切り発車の起業だったため計画は頓挫。
T氏はちょうどハワイに別送を建てた頃で、そこの管理人を探していた。
当時、内気な性格だったS子と、生まれながらに川崎病という難病を患って入院生活ばかりで、外に出る機会も少なかったT君........
環境を変えさせようと、母Su子はS子とT君をT氏が持つハワイの別荘の管理人として行かせる事を決断。
この時、S子は中学1年生、T君は小学5年生。
父M男は計画が頓挫したため帰国したものの、職探しから始める。
S子とT君は住む家と光熱費はT氏持ちだったものの、管理人としての給料は貰っていなかったため、早い段階で英語を身に付け、現地の日本人の子供の家庭教師をして生活費はS子が稼ぎ、弟T君を養っていた。
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