週明けは親父の告別式でした。
他界した直後から方々に連絡やら終えて、搬送車が到着するまでの僅かな時間、親父のいる病室で2人きりになれて悲しく思いましたが、遺体を実家へ帰してそこからはまたバタバタ。
翌朝、実家に葬儀屋が来て打ち合わせ。
「お父様が亡くなられた場合、喪主はお母様よりも長男さんがされる事が多いです」..................
おい、男女平等の世の中の流れから取り残されてないか?
家族葬とはいえ、挨拶やスピーチとか勘弁してくれよと。
生前、親父はうちの家族や弟家族が実家へ来たら、鍋や焼き肉をするのが好きだったので、皆で焼き肉を。
義妹が
「旦那さん(弟)、お義父さんに手紙書いてたんですよ、読みたいけど読んだらダメですよね」と。
「いいんちゃう?おい、手紙読んでいい?」「えー、うーん、まぁええよ」
義妹から読ませると、涙ポロポロと。
団地の狭い風呂に親父とアニキと3人で入るのが楽しかった。
エアコンも無い軽自動車に乗せてもらうのが嬉しかった。
東京に出て自分の力を試したいと親父に相談した時、背中を押してくれて勇気をもらった。
血を吐いて病院に担ぎ込まれるほど仕事して、心身共にボロボロだった時、電話くれてまた頑張ろうと思えた。
今はそれなりの生活を送れるようになったけど、70歳過ぎても現役だった親父には、まだまだ敵わないって思ってる。
「あんなめちゃくちゃなアニキだけど」実は優しいし、いざという時にはすごく頼りになるから、俺らの事も俺らが支えていくオカンの事も心配しないで。
.........
「あんなめちゃくちゃなアニキ」という文言には納得いきませんが、弟なりに新参者として叩かれながらも、その業界ではガンガン実績積んで業績伸ばしてのし上がってきた
「仕事の鬼」みたいな面とは違う、意外と情に厚い面が読み取れました。
!!!!!思いついた。
「葬式の時の喪主からの挨拶やけど、俺一言喋って弟にマイク渡すわ、それで弟の娘からの手紙を読んで、締めにこの手紙を要約したのを弟が読めば、皆大号泣で良い感じやろ」「いいですねぇ、お義兄さん!」やめろと言う弟など無視して喪主権限で無理矢理決定。
「で、お義兄さんは手紙書かないんですか?」え?.........俺も?
火葬場がいっぱいで、葬儀まで土日と丸2日空いていました。
親父とは色々ありましたが、親父の意識があるうちに
「俺は親父の子に生まれてよかったよ」は言えたので、自分の中では満足というか、思いは全て言い切ったと思っていました。
今更何か書く必要も無いと思っていましたが、義妹からの
「お義兄さんの手紙も読みたいです」に押し切られるように
「じゃあ書く」*名称以外はそのまま*親父へ
思えば親父からは怒られた記憶ばかり。
弟には甘く俺には厳しく「長男」というのをいつも重荷に感じていた。
短気で頑固な専制君主で「親父のようにはなりたくない」っていつも思っていた。
けれど嫁子には何かにつけ「お義父さんソックリ」と..................
俺が結婚して娘が生まれ、同居が始まって揉めてしまい、結果、お互い引くに引けず疎遠に。
何があっても自分の妻の味方で娘を守るのが俺の信念だから、親父の主張を受け入れる事はできなかった。
その間12年.........嫁子に「お義父さんとはどうするの?」と訊かれても「親父の事なんか知らん」と返事し続けながら、いつも「このままでいいのか?」と葛藤していた。
12年という時間は長く、親父は老いていき娘も子供から大人へ成りつつあった。
嫁子の親父さんは娘を見る事もなく亡くなってしまっている事を考えると、俺が正しいと思う事が、ただ祖父と孫の関係を壊してしまっているんじゃないかとずっと考えてた。
意地を貫くのは自己満足だと思って、中学生になった娘に全て打ち明けた時、娘は泣きながら「パパはマミーの味方になって偉いな」って。
それから「今まで、じいちゃんは居ないって聞かされたけど、居るなら会いたい」
.........嬉しかった。
ずっと悩みながら娘を育ててきたけど、娘の言葉で救われた気がした。
そこから止まったままの時間は動き出し、良い祖父と孫の関係になってくれた。
俺が娘を怒って娘が飛び出し実家に行った時「暫くこっちにいさせるから心配すんな、まぁあんまり怒ったんなよ」と、どの口が言うか?みたいに、びっくりするほど孫には甘く優しい一面があって、俺が箕面のじいちゃんを想うように娘も親父を想えたんじゃないかな。
そんな娘も、俺が心配しなくても将来を考えて努力していて、支えてくれてる彼氏というのが、俺から見ても良い男。
そのせいで「彼氏君は優しい子やね」って、嫁子が俺にチクチク言ってくるけど。
ひ孫の顔を見てほしかったな。
娘はしっかりしてるし、嫁子もたまに喧嘩するけど、誰よりも俺を理解してくれる強く優しい女。
だから俺の事は心配いらんよ。
仕事の方は、大学出てから倒産倒産と続いて散々やったけど、やっぱり「親父を超えたい」ってのはあって、でも、頭の悪い上司の下にいるのも馬鹿馬鹿しくて、結局普通の会社員からは外れて、自分本位でできるタクの運ちゃんに。
それならその道を極めようと、個人タクシーを目指して10年、思ってたよりもハードルは高かったけど、何とか認可を受けられた。
良いお客さんらにも恵まれて、正直「こんないい仕事あるんか?」って思うぐらい楽しく仕事してる。
酔っ払った親父を迎えに行った時「弟もお前も立派になって、お父さんは嬉しいよ」って言われて、初めて認められた気がした。
来月に少年野球のメンバーで飲み会を予定してた。
小学校を卒業して以来の久しぶりな奴もいるけど、皆「監督にはお世話になった」って寂しがってる。
35年経っても忘れられる事なく慕われているのを知って、少し誇りに思えたよ。
何だかんだ煙たがって嫌い嫌いと言ってたけど、知らず知らず俺にとって親父は「目標」になってたと思う。
自分が家庭を持つようになって、年齢と共にアパート、団地、マンションと住環境を豊かにしていくのは並大抵の努力ではできないと理解できた。
だから今は喪失感が大きい。
また怒られそうやから、しっかりしようと思うけどね。
今回、親父が入院してから驚いたのは、親父とオカンの関係。
しょっちゅう喧嘩してばかりやったのに、オカンは「早くお父さんのとこ行ってやりたい」って毎日面会時間開始に合わせて、体力無いくせに行きたがるし、親父も「お母さんは?」って毎日言うし、何だかんだ言いながらお互い愛情持って過ごしてきたんやとよくわかった。
これからは俺や弟がオカンを支えていくから、何も心配しないで。
俺も弟もそう考えられるように、ちゃんと親父が育ててくれたんよ。
安心してオカンと息子ら家族を見守っていて。
今まで本当にありがとう。
ちゅんちゅん丸より
*********
「話には聞いてたんですが、お義兄さんの考えがやっと理解できました」と義妹号泣。
「アンタ作文上手いね、これ棺に入れるんよね?じゃあコピー取っとくね」と意味不明な発言しながらオカン号泣。
微動だにせず「私の苦労が書かれてない」と言う嫁そこで外出して戻ると、オカン姉や宮崎のDやらがダイニングテーブルに置かれたPCのモニターのとこにワラワラ。
何見てるんかと思いきや、コピーされた手紙が張り出されていました。
完全に晒しもの..................
「いいやんか、皆に読んでもらいたい」とか言うオカン..................
小っ恥ずかしいからやめろと。
告別式当日。
義母はどうしても来られないとの事で、嫁弟が参列。
義妹のお母ちゃんは預けたりできない老犬がいるため、ペット同伴可のホテルを取っていて、弟の結婚式以来でしたが、29歳の義妹よりそのお母ちゃんの方が自分らとは歳が近いので喋りやすいものです。
義妹の2人の弟君らは上の子は仙台から、下の子は東京から。
親父が他界したのが金曜日の晩で、告別式は月曜日。
どうしても休みが取れなかったので前日に実家に帰していた親父のところへ来てくれました。
上の弟は、今海外で研修してる彼女が帰国したら迎えに行き、空港でプロポーズすると親戚中に公言し自らハードル上げていましたが、上手くいってお祝いしてあげたいものです。
告別式開始。
うちは「神道」なので基本的に質素。
祭壇というかデカい神棚のようなものがあるだけで、花飾りは一切なく愛想無い感じ。
香典無しの親族のみの形でしたが、宮崎の親父姉らはどうしても香典置いていくと言うので、その分は花代に。
そして..................前にブログで書いたリミッターカットな同級生が
「俺は少年野球で監督には世話になったから」と、あちこち呼び掛けてくれて花飾りを式場に送ってくれました。
LINEのグループも作って
「来月、監督を偲ぶ会やるで」と飲み会の招集を掛けてる奴も。
チーム自体は強かったのですが、監督だった親父のスパルタぶりはよその子とか関係無しの鉄拳制裁でした。
加えて小学校4年生から6年生までのたった3年間でしたが、恨むどころかこうやって気に掛けてくれたのが嬉しく、今回一番涙が出たところでした。
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さて、この「神道」というのは仏式とは違い、坊さんではなく神主、お経ではなく祝詞になります。
親父の地元宮崎では珍しくないようですが、大阪の親戚らも初めての人間が多く、やり方がわからないと。
仏式でいう「焼香」は無く、代わりに榊の枝を捧げる「玉串奉奠」になりますが、昔聞いたのは..................
「右手で枝、左手で葉っぱといった向きで受け取って、時計回りに270度回して枝を祭壇に向けて置く。
その後、伊勢神道は二礼四拍手一礼」葬儀屋に訊いたら合っていたので、親戚らには
「俺のを見といて」焼き場へ。
出棺前、棺に入れるものとして、うちはぶどう、スイカ、メロンを切ったもの、魚の切り身、牛肉、ハンバーガー、嫁が
「お義父さん、これ好きやったのが一番印象にある」と赤飯おにぎり。
棺に赤飯入れるってどうよ?と思いましたが、親父は嫁には文句垂れなかったので、まぁいいかと。
娘は式場から出て行ったと思いきや隣のドラッグストアに行ってたようで
「じいちゃんには、私より好きなこれ」で、ガリガリ君のアイスを。

車列が途切れないよう必要最低限の台数でと言われていたので、とりあえず大きな車に分乗。
自分のクラウン、弟のカイエンGTS、嫁の弟のベンツVクラスの3台で霊柩車に追走。
嫁の弟など完全アウェイな6人乗せて気を遣っただろうし、嫁は
「家も大阪市内ですぐそこやのに、そんなに渡さんでいい」とは言っていましたが、車代5万円渡し
「どうせ親父の金やから、奥さんに黙って小遣いにでもして」と言うと喜んでくれました。
昼食にして骨上げへ。
下半身や腕は骨が残っていましたが、転移していた肋骨は完全に崩れている状態。
最初に手術した背骨は、殆どの背骨の中にセメントを流し込んでボルト留めをしていたので原型が残っていて、そのボルト長さと太さ、連結している金属の太さに驚きました。
骨壷を実家に届け、無事終了。

今回、とにかく疲れました。
元々睡眠時間は短い方ですが、寝てても起きてるような感覚というのか、疲れすぎて覚醒しているというのか..................
誰かの事で1ヵ月ほど、ここまであれこれした事はありませんでした。
肺癌が発覚する1週間前には、弟の子供ら抱っこして公園で遊んだりしていて、発覚してから1ヵ月で他界という早さだったので、こちらとしては病気というよりも交通事故にでも遭ったような感覚ですが、こればっかりは仕方ありません。
中途半端に退院して、在宅介護が必要になったりというのを考えると、正しいのかわかりませんが、入院したままアッサリ逝ったのは最後のオカンへの愛情だったのかもしれません。
まだこれから手続きや申請、仏式の四十九日にあたる「50日祭」の段取り等、やるべき事は多いのですが、ひとまず告別式が無事に終わってホッとしているところです。
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